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清貧の生き方は、価値観にしがみつく生き方で実は執着的な生き方。豊かさという価値に変わって、貧しさという価値に重きを置いている。 それに対して「捨てる生き方」は、価値観を捨てていく生き方。

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以下、佐藤康行著書「捨てる哲学2」より抜粋

清貧とは「行いが清らかで私欲がなく、そのために貧しく暮らしていること」(『広辞苑』より)です。

バブル経済崩壊直後の頃に「清貧」について書かれた本がベストセラーになりました。バブル時代を反省し新たな価値を模索する時代の空気が、この本が売れた大きな要因になったのだと思います。

文字通り「清く貧しい」生活を善とする風潮は、東西古くから連綿として存在しています。それは文明の繁栄にともなう度を超えた贅沢や風俗の乱れに対する批判としても機能してきました。

例えば、孔子は『論語』において「賢なるかな回や、一箪(いったん)の食、一瓢(いちびょう)の飲、陋巷(ろうこう)に在り」と貧しい生活を苦とせずに暮らす一番弟子の顔回を褒めています。

あるいは、古代ギリシアエピクロスは、「隠れて生きよ」と言い、刺激の少ない隠遁生活に幸福の条件を見出しました。

本書の「捨てる生き方」は、こうした清貧の思想とはまったく異質なものです。

「捨てる生き方」は、捨てることによって、物心両面の豊かさを実現する生き方です。

それは物質的な繁栄を拒絶もせず、敬遠もしません。

豊かさに対する執着を捨てさえすれば、豊かさ自体を捨て去る必要はないのです。

また、清貧思想を奉ずる生き方は、実は執着的な生き方です。

それは、清貧という価値にこだわる生き方だからです。

清貧の生き方は、高潔な精神の象徴です。そして、高潔であるという社会的評価を得ることは、一つの名誉です。清貧の生活を送る人々の一部には、この名誉を保持することを動機としている人もいるのではないでしょうか。

いずれにせよ、清貧思想は、固定的な文化的価値に結びついており、それは人間としての根本的な価値を基盤とする「捨てる生き方」とは違います。清貧の生き方は、価値観にしがみつく生き方です。豊かさという価値に変わって、貧しさという価値に重きを置いているわけです。

それに対して「捨てる生き方」は、価値観を捨てていく生き方です。価値観を捨てるとは、まったく新しい人生を歩むことにほかなりません。

〜以上、佐藤康行著書「捨てる哲学2」より抜粋〜

 

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