27年のSAD、うつ・自殺未遂から急快復!
今回は、佐藤康行(YS)メソッドと出会い、27年のSAD、うつ・自殺未遂から急快復された、高橋隆さんの体験談です。
「ありがとうございます」が言えない
私は元々すごく緊張症で、内向的な子どもでした。20才の頃、社会人になり、オートバイ用品やウェア類を販売する仕事に就きました。
それから順調に仕事をこなしていましたが、2ヵ月ほど経ったある日のこと、電話に出たときに「ありがとうございます、○○会社の高橋です」と言うべきところが、なぜか「あり……」と言ったまま止まってしまいました。
続きの「……がとうございます」を言おうとしても、どうしても出てこないのです。
絶対に「ありがとうございます」と言わなくては。そう思った私は、電話口でずっと「あり……」「あり……」「あり……」と繰り返していました。
受話器の向こうで、通話相手の女性がケタケタ笑っているのが聞こえ、恥ずかしくて辛くなりました。この体験の後、電話に出るのが怖くなった私は、電話のベルが鳴るたびにドキッとして恐怖を感じ、近づきたくないと思うようになっていきました。
そうしているうちに、お店へいらっしゃったお客様にも「ありがとうございます」が言えなくなっていきました。
それだけでも悩んでいたのですが、さらには「いらっしゃいませ」も「いら……」「いら……」「いら……」と、言葉が出なくなってきたのです。
ある日、親しい友人が彼女を連れてお店に来てくれました。
私は格好いいところを見せようと張りきったのですが、やはり「ありがとうございます」が言えなくて、「あり……」「あり……」「あり……」と言ってしまいました。
友人は「お前、何言ってんねん」と茶化しましたが、私としてはすごく恥ずかしくて、ますます「ありがとうございます」が言えなくなっていき、先輩にもそれを指摘され、怒られるようになりました。
そのうち店で働くこと自体がすごく辛くなり、仕事を辞めてしまいました。
接客業がだめならということで、私はケーキ職人の世界に入りました。
勤務先は百貨店で、食品フロアのブースのなかで、ケーキ作りの実演販売をすることになりました。
直属の上司はすごくいい人でしたが、まだ新米の私にすべてを任せ、営業時間中はどこかに行ってしまっていました。
確かに、お客様と直接会話することは減ったのですが、新人でありながらお客様の前でケーキを作るのはすごく苦痛で、緊張してしまいました。
慣れない手つきでやっていますからお客様に笑われてしまったり、時には「何やってんの、この人」などという声が聞こえてくることもありました。
それで今度は、体に変調が表れて、仕事が手につかないようになってしまいました。
これ以上は続けられないと思った私は、何かしら理由をつけて、この仕事も辞めてしまいました。
藁にもすがる思いで、精神科を受診
また仕事を探して、私が就いたのは、なぜか接客の仕事でした。
某有名ファーストフード店なのですが、今度は「ありがとうございます」といった言葉はマニュアル化されていて、きちんと言わなくてはいけなくなってしまいました。
最初は何とか乗り切っていたのですが、そのうち誤魔化しが効かなくなっていきました。
さらには「少々お待ちください」「お待たせしました」といった言葉も言えなくなり、電話に出るのも苦しく、接客業務に支障をきたすようになったのです。
それですごく辛くなって、この仕事も続けることができなくなりました。
どうすればいいか悩んだ私は、思い切って独立することにしました。独立すれば、言えない言葉を避けながら仕事ができる。
そうすれば、こんなに苦しまず、楽に生きられると思いました。借金までしてお弁当の店を開いたのですが、結局はうまくいかず、3ヵ月でお店を閉めてしまいました。
この時期、私は妻と婚約していました。年を追うごとに「ありがとうございました」が言いづらくなっていましたが、恥ずかしさもあり、それを妻に話したことはありませんでした。
結婚するためには早急に借金を返す必要があったので、すぐに某有名コーヒーチェーン店に再就職しました。
しかし、ここで大きな誤算があったのです。
この会社では、私があれだけ苦手とする言葉の数々を、イントネーションまで決めてあったのです。
これまで何とか言葉を誤魔化していた身としては、イントネーションを強制されたことで、自分を追い込んでしまいました。
どんどん自信を失い、ネガティブになっていってしまったのです。
さすがにこれではいけないと思い、藁にもすがる思いで精神科医を受診しました。
精神科の先生からは「なぜそうなるのか、分からない」と診断されました。
「気持ちの問題」と言われて、そのまま生活を続けることにしたのですが、やはり接客業をしていく上で「いらっしゃいませ」「ありがとうございます」が言えないというのは苦痛でした。
さらに自分が店長になり、指導する立場になったとき、それが自信をなくしていく要因になってしまいました。
自分が普通にしゃべっている言葉も、自分ではないような感じになりました。
それが周囲にも伝わってしまうのか、アルバイトさんから舐められるようになってしまい、さらに自分を追い込んで、逃げるように辞めてしまいました。気付けば、また転職することになったのです。
クレーム対応が、けんかに発展
次に勤めた店舗は規模が大きく、最初の頃は隅の方で仕事をしていれば良かったのですが、やがて店長になり、店内放送をしなくてはいけない立場になりました。
店内にいる全員に聞かれるという恥ずかしさが強く、実際に何回か言葉が出てこない時がありました。
失敗すると、やる気がどんどん無くなっていくのが分かりました。
店内や電話口で「いらっしゃいませ」「ありがとうございます」がうまく言えなかった時は、自分の首が締まり、呼吸ができないような感じなります。
無理矢理絞り出さなければ、声も出ない状態でした。
そうなるとすごい自己嫌悪に陥って、一日中仕事が手につかなくなってしまいました。
本当にこれはおかしいと思った私は、また違う精神科医にかかることにしました。
なぜ言葉が出ないのか原因は不明でしたが、その医者から、精神安定剤が出されました。
薬を飲み始めても全く効かなかったので、それを医者に伝えたところ、投薬量が増えました。増えれば増えるほど、どんどん体がおかしくなるような感じがしましたが、でも薬を飲むしかないのかなと思い、薬を飲み続けていました。
その頃になると、常にボーっとしていて、やる気が全くなくなり、性格がすごく攻撃的になりました。
ちょっとしたことでカッとなり、道端のガードマンを怒鳴りつけたこともあります。
自分のことがうまく言えず、言葉に自信が無い分、キレたような言い方になり、家庭では妻を傷つけました。
妻とは価値観が正反対で、しょっちゅうけんかをしていました。妻のやることなすことが、認められませんでした。
今思えば、私自身が長年、妻に症状を隠していたからかも知れませんが、肚を割って話すこともありませんでした。
お店では、相変わらず辛い日々が続いていました。
店内に出てお客様と会話するのが辛く、店内に出るのは最低限にして、できる限り倉庫で作業をするような毎日でした。
そんなある日、お客様からお店にクレームが入りました。
私が対応したのですが、言葉でうまく伝えられず、そのもどかしさもあり、怒りがだんだんエスカレートしていきました。
ついには、店内でつかみ合いのけんかになってしまい、警備員が止めに来るような騒動になってしまいました。
ふと我に返った私は、激しく落ち込みました。自分は店長なのに、従業員やお客様のいる前で、なんてことをしてしまったんだろうと思いました。
その日の帰り道は、ものすごい自己嫌悪に襲われました。
家に帰る道すがら、私は、生きている価値を見出せなくなり、刹那的に「もうどうでもええわ」という気持ちになりました。
こんなにしんどいのは、もう嫌でした。
そして帰宅後、自分の腕を刃物で切りつけたのです。
軽く切ったら、すぐに血が止まってしまったので、何回も何回も腕を傷つけました。
もう本当に、何も考えずに切りつけている感じでした。
幸いなことに、翌日の明け方に妻が気付いてくれて、私は病院に運ばれました。
その時、初めて医師から「あなたは、うつです」と告げられました。
これまで、自分がうつだったとは全く思っていませんでした。
医師からは1ヵ月休職するように言われたのですが、1ヵ月後の医師の診断は、職場への復帰は難しいということでした。
あらゆる療法を試す
しばらく仕事ができないと分かり、私はさらに落ち込みました。
それからは本当に身動きがとれなくなり、一日中寝込んでいる状態でした。数ヵ月後、私を心配して親友が訪ねてきてくれました。
その時、私はもう前の仕事に戻れないかも知れないと思っていたので、独立してまたひとりでやっていこうかと、その親友に相談したのです。
すると、親友は「お前には無理や」と言いました。
後から考えれば、それはおそらく「今のお前には無理」という意味だったと思います。
しかしその時の私は、全人格を否定されたような気持ちになってしまいました。
そして親友が帰ったその日の晩に、また腕を切ったのです。
今回は周到に準備をしたので、生死の境目をさ迷うくらいの状態になりましたが、またもや妻に発見されて、病院に運ばれました。
それからの私はもう、生きる屍みたいになってしまいました。
朝は起きられず、 一日中布団のなかにいるような状態で、もうボロボロな感じでした。
妻は、私がこんなに迷惑をかけたのに、懸命に支えてくれていました。
それから半年以上経ったある日、たまたま精神科に行く日を間違えてしまい、手元にあった薬を切らしてしまいました。
その日は実家に行っていたのですが、突然、激しく全身が痺れ始めました。
物がちょっと触れただけで、体中に電気が走るような感覚があり、さらには目のなかで、眩しい光がチカチカしたのです。
足にも力が入らず、まともに立っていられなくなった私は、すぐ近くの医者に連れていかれました。
結局原因は分かりませんでしたが、薬が切れたお蔭で、ずっとボーッとしていた頭が、正気に戻った気がしました。
もしかしたら、私はすごく恐ろしい薬を飲んでいたのではないか?
薬のせいで、うつになったんじゃないかと思ったのです。
それから私は、心の病について調べ始めました。
自律神経訓練法など、効くといわれる療法なら、なんでも試し始めました。
NLP(神経言語プログラミング)などを取り入れた時、何となく体が動き始めたと感じ、さらにヒプノセラピーや催眠療法、タッピングなども試してみました。
うつに関しては、少しずつ改善している手応えがありましたが、人生を歪ませた根本の原因である「いらっしゃいませ」「ありがとうございます」が言えないというのは、治すことができませんでした。
調べていくうちに、この症状は、ある特定の場面で極度に緊張感を催し、社会生活に支障をきたすものだと分かりました。
それをSAD(社会不安障害)というのですが、この症状がある限り、またうつになる予感がしました。
一生隠し通すわけにはいかないですし、本当にこれを改善して、活き活きと生きたい。そう思いました。
素晴らしいカウンセラーとの出会い
休職して1年半後、医師から復職の許可が出ました。
会社の上司からは転職を勧められましたが、残りたいという意志で元の会社に戻りました。
その後、働いているなかで、私としてはうつがずいぶん治ってきている実感がありましたが、会社からは「君に出世の道はないからね」と宣告を受けていました。
結局、この会社には復職後4年半勤めましたが、このままこの会社に居続けるわけにもいかず、転職を決意しました。
私が次にやろうと思った仕事は、営業でした。今から思えば無茶だったのかも知れませんが、営業をすることで自分が磨かれ、心の弱い部分を鍛えられるのではないかと思ったのです。
転職先は車のディーラーでしたが、営業ではなく、総務として採用されました。
まずは希望の職種ではありませんでしたが、総務であっても販売支援で店舗に出ることが多く、電話応対もありますから、やはり心の辛い部分が出てくることがありました。
そうしたなか、素晴らしいカウンセラーの先生との出会いがありました。
その先生は、カウンセラーを始めたばかりということで、無料モニターを募集されていたのです。
何を言ってもすべて受け入れてくれる感じの先生で、安心感を持ってお話することができました。
温かい愛に溢れ、包み込んでくれ、自分の全てを認めてくれる方だったのです。
私はその先生に向かって、罵詈雑言を吐いてしまうこともありましたが、それすらも認めてくれました。
相談したことに対して「やっていることに間違いはないですよ」と、無条件ですべてを認めてくださったのです。
それに、たまに頂くアドバイスも的確でした。
「今からお父さん、お母さんにありがとうを伝えてみませんか」「瞑想するといいですよ」など、その時に必要なことをタイミング良く教えていただけました。この先生と話をするだけで、自信が湧き、癒され、本当に心が洗われるようでした。
すると会社では、電話に出るのが楽になってきました。
その頃は、まだまだ「ありがとうございます」が言えないことが結構あったのですが、それでも、言えなくても別にいいや、という風に思えました。
言えないことは、別に悪いことではない。
それでも何とか電話に出て、懸命に「ありがとうございます」を言おうとする自分を認めることができた……。それを感じられたのがとても不思議でした。
その先生のカウンセリングを受け始めて1年くらい経ったとき、たまたま購読していたメンタル系のメールマガジンで、佐藤康行(YS)メソッドの存在を知りました。
偶然にも、私が休みの日の平日に、無料の説明会があるということでした。
これも、もしかしたら自分に役立つかもしれないと思った私は、説明会に参加しました。
しかしその説明会は、正直なところ私がすでに知っていた知識が中心で、あまり意味がないものに感じました。
言葉は違いますが、心の仕組みについてなど、例のカウンセラーの先生がいつも話されていることと、同じだったのです。
その話をカウンセラーの先生にしたところ、驚くべき答えが返ってきました。YSメソッドに否定的な意見を述べた私に対して、カウンセラーの方は、私を諭すように、こう言ったのです。
「高橋さん、実は私も、YSメソッドで救われたんだよ」と。
詳しく話を聞くと、カウンセラーの先生が経験してきた人生は、壮絶そのものでした。
二度も自殺しようとした私の人生よりも、凄まじいものがありました。
「高橋さん、僕はあなたのカウンセリングを始めた時に、あなたはいずれYSメソッドに出会うだろうと、何となく分かっていたんだ。でも、高橋さんの性格からすると、出会ったときに、すごく拒否反応を示すのは分かっていた。だから、出会ったその時に、背中を押してあげようと、ずっと見守っていたんだ」と仰いました。
それを聞いた私は、本来1カ月の無料モニターだったはずなのに1年間も、何も言わず待っていて下さったことに、とても感動しました。
そして、これは本当にYSメソッドに行かなければいけない、そう思ったのです。
SADが、治った!
YSメソッドの受診は、本当の自分である「真我」を体感するもので、それは二日間に亘りました。
その二日間で、私は今まで体験したことがないような、本当に心が洗われるような体験をしました。
YSメソッドでは、何種類かのワークを行い、カウンセラーと会話していくのですが、本当の自分を自覚することで、今までのトラウマがすべて消えていくような、すべてから解放されたような体感があったのです。
私は、自分でも気付かないうちに、ドロドロした感情を抑え込んでいたのだと分かりました。
その時は、母への想いを掘り起こすようにワークをしていました。すると、本当に感謝の気持ちが止まらなくなって、一人になってからも一晩中泣いていました。
蓋がはずれ、愛が溢れると、こんなにも気持ちがいいのかと、初めて知りました。あれほど苦しんだ「いらっしゃいませ」「ありがとうございます」が言えなかった状況など、本当は無かったんじゃないかと思えるくらいでした。
そして次の日、会社に出勤した時のことです。
机の上の電話が鳴りましたが、何とも思わなくなっている自分がいました。これまでは、電話のベルの音を聞くだけで、心臓がドキドキしていたのです。
電話に出られるかも知れないと思い、受話器を取りました。すると、普通に「ありがとうございます」が言えたのです。
私は、これで治ったと確信しました。今までどんなことをやっても治らなかった言葉の症状が、たった二日の受診で完全に治ったんです。
そのことに、すごく驚きました。うつになり、自殺未遂までするくらい悩んでいたのですから、自分でも信じられませんでした。
その後の私はもう、電話で「ありがとうございます」が言えないことは無くなり、うつ再発の不安も消し飛びました。気がつけば、「ありがとうございます」が言えなくなってから、27年の月日が経っていました。
それは本当に良かったのですが、だんだんと問題も起こっていました。
これまで心を押し込めていた反動だと思うのですが、家庭でも会社でも、相手の気持ちを考えないで、感情が溢れだすまま、抑え込むことなく、言いたいことを言うようになってしまったのです。
自分にとってそれは、気持ちのいい状態でした。
しかし、相手はたまらなかったでしょう。
妻とは家庭内別居状態になり、子どもには感情のまま当たり散らし、会社では社長と意見が対立して、険悪な関係になってしまいました。
YSメソッドを受けた時は、あれほど親に感謝できたのに、近くの人間関係がこじれてしまうのは、何かがおかしいと思いました。
あの全てを受け入れ、認めてくれたカウンセラーの先生に、初めて「君は大いに勘違いをしている。
そんなことのために、YSメソッドの治療を受けたんじゃないだろ!」と、真剣に怒られた瞬間でもありました。
このまま行けば、自分は本当に嫌なやつになってしまう。そう感じた私は、再びYSメソッドを受診することにしました。
その時、YSメソッドのカウンセラーに指摘されたのは、私の隠れた感情についてでした。
「高橋さん、自分自身では気付いていらっしゃらないですが、あなたはずいぶんお母さんとのわだかまりがありますね。これからは、お母さんの悪口を紙に書いてください」と言われたのです。
それからしばらく、ずっと悪口を書いていたのですが、不思議なことに母への悪口が、いつの間にか自分が求めていた愛だと感じてきたのです。すると、母への感謝が湧いてきて、涙が止まらなくなりました。
溢れる感謝
その後、落ち着いた私は、野菜ジュースとツナのサンドイッチを口にしました。
まずは野菜ジュースを飲んだのですが、ひと口飲んだ時、ものすごいことが起こりました。
これほどおいしいものを口にしたことがない! というくらいおいしい野菜ジュースで、感動した私は涙が止まらなくなったのです。
こんなにおいしい野菜ジュースを作るために、農家の方が丹精込めて、野菜と果物を育ててくださったんだ。
そう思うと、さらに涙がとめどなく流れてきました。
野菜ジュースを作ったメーカーさんが無ければ、私の手元には来ていないですし、パッケージが作られ、配送し、販売する人たちもいます。
その事実はものすごい衝撃で、本当に泣けました。
自分は、今までひとりで生きてきたと思っていました。
しかし、そうではなかったのです。私は全く勘違いしていたのです。
たかが野菜ジュースかも知れませんが、どれだけたくさんの人に自分は支えられ、生きてきたのか。そう思うと、ますます涙が止まらなくなりました。
サンドイッチも、びっくりするほどおいしかったです。
このツナサンドにしても、朝早くからパンを焼いてくださった人や、海でマグロを獲ってくれた漁師さんがいてくれたからこそ、食べることができることに気付かされました。
私は、当たり前のように生きてきましたが、当たり前ではなかったのです。
本当に、今自分が生きているのは、奇跡なのだと思いました。
すると、両親への感謝が思い浮かんできました。
その心のまま、お爺ちゃん、お婆ちゃん、さらにはその両親、そしてご先祖様へと、生命の繋がりを逆にたどっていきました。
突然〝命のバトン〟という言葉が、頭に浮かびました。
今まで生きてきて、一度も考えたこともない言葉が出てきたので驚きましたが、誰ひとりとして命のバトンを落とさずにいてくれたから、今自分がここにいるんだと、そう思えました。
私のイメージは、さらに過去へと繋がっていきました。
人間が人間に進化する前の哺乳類になり、さらには両生類になり、魚になり……。ふと気がついたら、自分が暖かい海のなかにいました。
上からは太陽の光がキラキラと降り注ぎ、まるで母のお腹のなかにいるような、そんな感覚です。
その時、私は心のなかで「あっ!」と声を上げました。
自分は命としてひとつだったということと、地球から生まれた、地球としてひとつなんだということに気がついたのです。
命と地球は、ひとつでした。
命はひとつ、皆他人ではないんだ、皆に支えられて生きてるんだと、さらに感謝の気持ちが湧いていきました。
執着を捨て、さらに快調に
受診を終えた帰り道では、周りの人が他人とは思えず、すれ違う人全員に、ありがとう、ありがとうという気持ちが出てきました。
帰宅して妻の顔を見たとき、私は妻への接し方を、根本から変えなくてはいけないと思いました。
まずは、妻に対する感謝の気持ちを綴った紙を渡しました。
その行動は気味悪るがられて、受け入れてはもらえませんでした。
しかし、妻の態度はすぐに変化していきました。
それまでは食事も別々だったのが、同じテーブルで食事してくれるようになり、買い物なども一緒に行ってくれるようになったのです。
私には、本当の意味で、真我という命に対する確信が生まれていました。
これまでは、感謝が足りなかったのです。
ありがとう、と思ってはいても、心の底からの、本当の感謝ではなかったのでしょう。
だから「ありがとうございます」の言葉が出なかったのだと感じました。
また、「ありがとうございます」が言えないという現象に、自分自身が執着していたことにも気付かされました。
その現象を、例えば転職する時の言い訳にしていた可能性もあります。
確かにこれまで、言葉が出ないのが辛くて転職してきたのですが、逆から見れば、だから辞められたのだとも言えます。
ある意味、病気をうまい具合に使っていたのかも知れません。
病の時には気付けませんでしたが、それに気付いた瞬間、執着を捨てることができました。
すると、自分の心と体が繋がったような気がして、生まれ変わったような感覚になり、さらに快調になっていきました。
その後、私は縁あって出版社へと転職しました。
ある意味、出版社はお客様の人生にかかわる情報を、商品として扱っているとも言えます。
私は真我を自覚したことで、本当にいい商品とは何か、命の価値を高める商品とは何かを見極める目が養われました。
その視点で、本当にお客様にとって必要な商品を自ら会社へ提案して、それが実際に映像ソフトとして発売されるまでになりました。
これからは、その商品が足がかりとなって、新規ビジネスも立ち上がっていきます。
ずっと遠回りして、壁にぶつかり、自分ではない生き方をしてきました。
それは苦しかったですが、病気が治ったことはもちろん、今は生きる道が明確に分かっているのが本当に嬉しいです。
仕事を通じ、周りの人を笑顔にして、光輝かせて幸せにしていくのが、自分の役割です。
そう思えて、実行している私自身が、幸せでしょうがないのです。
本当の自分である真我は、愛そのものです。私は、真我を自覚することで、第二の人生をもらったと思っています。その意味で、YSメソッドは、命をくれた母親です。
これまでご縁を頂いた家族、会社の方々、お客様などすべての方々に、「ありがとうございます」と心からの感謝を込めて、毎日を送っています。
以上高橋隆さんの体験談です。
同じように苦しまれている方のお役に立てばと、高橋さんの体験談をご提供いただきました。
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