17年間のうつが寛解、DVも治った!!
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今回は17年のうつが寛解し、DVも治り、一気に天職と出会いトップセールスマンにまで蘇った三輪大五郎さんの体験談をご紹介させていただきます。
自分には心がない
大学1年生の頃、私は下宿住まいをしていました。
何ごとにも積極的なタイプだった私は、
外に出ていきたくない、
あれ、何だろうと思っていたら、
その頃はうつという言葉も市民権を得ていませんでしたから、
その後、外に出て行けるようになったり、 出られなくなったりを繰り返しました。
うつ状態は外でも家でもかまわずやってきます。
普通に動いていても、わっ、きたとなると、
小学校で児童会長、中学・高校時代には生徒会長を率先して務め、
それが気になっていたのですが、その頃の私は、
振り返ってみれば、
感動する映画を見たら泣けるのかなと思い、
「ああ、俺には心が無いんだな。やばいな俺、心凍ってるじゃん。
亡くなった祖母に、仏壇で手を合わせながら「婆ちゃん、
唯一、泣いた記憶と言えばそれだけだったのです。
祖母が亡くなった原因は、直腸がんでした。
そして祖父も、胃がんで亡くなっています。
祖母は66 才、祖父は71 才で、そんなに高齢とは言えない年齢で亡くなっていました。
さらには母の妹……私にとっては叔母ですが、
三人とも、本当に立て続けという感じでした。
がんが見つかってからあっという間に亡くなっていったんです。
私の母は「いつか私もがんで死ぬんだ」と、
最愛の家族三人を一気に失って、怯えきっていたのです。
なぜ人はがんになるのか、私は考えるようになりました。
がん細胞は、自分が栄えれば栄えるほど、
人間が死んでしまったら、
そういった疑問が湧いて、
叔母は、抗がん剤治療をして切除の手術をしたのですが、
私はこの頃から、
がんもうつも、過去からの因縁に違いない。
この因縁を自分の代で断ち切らなければいけない、
とは言え、何か具体的な解決策があるわけでもありませんでした。
うつの方は、
他にもいろいろなことが重なって、
親子の仲睦まじい姿に硬化する心
その後の私は、うつを押して牧場で働くようになりました。
若者向けの寮に入り、牛の世話をしていたんですが、
結局、1ヵ月のうち半分程度しか仕事に出られなくなって、
自室ですから押し入れに入る必要はないと思われるかも知れません
むしろそのほうが、多少は安定的な気持ちになれました。
ある日、牧場で働く女性の子どもが、
子牛にミルクをあげているお母さんに、
それを見た瞬間、一気に気持ちが悪くなって、
それどころか、そのまま半月に亘る引きこもりが始まったんです。
親子の微笑ましい姿は、特にうつの引き金でした。
なぜ自分がうつなのか、心に関する本もかなり読んでみましたが、
しかしそれでも、
なぜかは分かりませんが、押し入れの真っ暗闇のなかで、
牧場には私以上に重いうつの症状で悩む同僚がいて、
やっぱり心のことで悩んでいる人は多いな、
どうやって治るかは分からないけれども、
さらに同僚のなかには、
抗がん剤治療で、頭がつるつるになっていました。
また私のなかに「因縁を切るしかない」
がんで亡くなった、祖父母と叔母のことを思い出したのです。
とは言え、私はもう完全にうつ状態で動けないわけですから、
仕事に出られない私を周りの人が心配して「お前、
そう考えたときに、はっきり思い出されたのが母との関係でした。
母は、
炊事洗濯ができない時は、父と私と兄弟たちで、
母は不眠症であり、自立神経失調症も患っていましたし、
読んでいた本の知識からも、
甦る幼少時の恐怖
久しぶりに母と生活するようになって、その時に甦ってきたのが、
それまでは忘れていましたが、
自分がうつになった原因は、この幼い頃の記憶だと、
今更ながらですが、母に「謝ってくれ、
今思えばとんでもないことなんですけど。
すると母は、「悪かった」って謝ってくれたんです。
しかし謝られてもなんかこう、全然手応えがないんです。
私はその頃、林業の仕事に就いていました。うつ病は続いていて、
そんななかで、
ある日、母が私を抱きしめてくれたことがありました。
「もしかして、母に抱きしめてもらいたいのかな?」
その時は「あっ、これでうつが治る」と思ったんですが、
林業を続けていた私は、
仕事に誇りも持っていましたし、楽しい時もありましたが、
実際、何回か大きなけがもしましたし、
じゃあ天職は何なんだろうと思っていました。
もう何回も腕時計を見て、まだ10 分しか経っていないのか、早く帰りたい、と思っていたのです。
職場の人間関係も、
その場にいない上司とか、
でも一緒にいる人を悪く言うとなった時に、
そんな自分がまた嫌でした。
妻子に現れる背負った因縁
そうこうしているうちに、
しかし彼女のお父さんに、すごく反対されたんです。私は内心、
後で分かったのですが、その時彼女は、
すると彼女は体調を崩して、
仕事にも出られなくなってしまい、検査をしたところ、
調べてみたところ、この病気は原因不明で治しようがなく、
この先、どうすればいいんだ? となった時、気づいたことがあったのです。
それは、彼女が原因じゃない、本当は私の度胸の無さが原因で、
「申し訳なかった、
と言って、お父さんに会いに行きました。
いろいろ言われはしましたが、最終的にOK をもらうことができたんです。
そこから私の両親の後押しもあって、
その後、結婚生活が始まりましたが、
家事を始めても途中で体力が尽きてしまうのです。
私はうつで月の半分しか仕事をしていませんでしたから、
そのときに私のなかに甦ってきたのが、因縁という言葉でした。
なぜかと言うと、私の母が病気で、家事ができなかったからです。
病気の名前は違うけれど、
これは自分が何かを学ばなければならない、
この時、さらに悪いことに、
暴力は振るわなかったのですが、
娘が産まれてからは、
あきらかに常軌を逸した切れかたをして、
これはまずいと思っていましたが、どうしても娘を愛せません。
よちよち歩きになっても、
うつを抱えながらも、
母に怒鳴られて育った私が、
娘は妻から離れなくなり、
二人目の長男が産まれた時、
当時一番嫌だったのが、ホームドラマやコマーシャルで、
こんなに子どもを愛せないのに、
そこで本気になって、うつを治そうと行動し始めたのです。
うつの治癒方法を探し求めて地元の市の職員で、
しかし、焼け石に水でした。うつの自助グループに入り、
いいセラピーがあると聞けば、
しかし、それも空振りに終わりました。
心理学や子育ての本も読み漁りましたが、
もう、ぐちゃぐちゃの家族関係を背負っていました。
泣きわめく娘は、子どもの頃の私そのもの。
この構図こそ、因縁からきているものだと強く感じていましたが、
怒りから正気に戻った瞬間、
「何やってんだ俺、こんな俺はいないほうがいい。
うつと怒りが押し寄せる毎日に私は疲れきり、
よく新聞やテレビで、
そこで有識者と呼ばれる方が、「この親には愛情が無いんですよ」
「自分でコントロールが効かないんだよ。
そこまで言えるなら、今すぐ俺のところに来て、
これが私の、偽らざる本音だったのです。
そのような家庭と心の状況を本当に何とかしたいと思った私は、
その方から勧められたのが、佐藤康行(YS)メソッドによる治療でした。
でも、もし本当に受けたいなら、
「私、うつ治りました」
佐藤康行(YS)メソッドの治療は、
しかし私は母に対する大きなわだかまりがあったからか、
その瞬間私はぶち切れて、ものすごい剣幕で怒鳴り散らしました。
カウンセラーは頷きながら、一生懸命聞いてくれました。
切れている時間は、実はそんなに長くないんですよ。
それを短いインターバルで連続で繰り返したので、
ちょっと冷静になった私は、母との和解を意識しました。
とは言え、母と私との間に横たわっている、
紙には何回も「いつ来るの、その和解」「いつ来るの、その和解」
すると、来たんです。「今だー!」っていう、
そこで初めて、元々ひとつだったっていうのが分かったんです。
母と私は繋がっている、溝なんか無かったと。
その瞬間に、母があのように私を怒鳴り散らしたのも、
めの出来事だったんだ、
後はもう、泣いているのか吠えているのか、
カウンセラーが、私の背中を擦ってくれていました。
記憶が飛ぶくらいずっと泣いていたのですが、
しばらくして心が軽くなった私は、無意識のうちに「私、
考えるより先に、セリフが出てきたんです。
言った瞬間に、「あれ? 俺、治ったの?」と思いましたが、
驚いたことに、三人の子どもへの愛情も、
帰りがけに、私は思い出しました。
それはかつて、
「やっぱりあったんだ! これでうつは治せる! ついに体験したぞ!」
そう思うと、興奮が止まりませんでした。
その日、私が家に帰ったときのことです。
玄関で「ただいま〜」と言った私を迎えてくれた妻が「おかえり〜
その姿を見た私も、なぜか一緒になっておいおい泣きました。
後で聞いたところ、
娘も明るくなって、保育園に行けるようになりました。
「お父ちゃん変わった、優しくなった」って言ってくれたんです。
さらには妻に、「お母ちゃん怒りんぼだから、
職場では、
悪口を言うのは元々嫌でしたが、
しかし田舎ですから、
でも私は我慢できなくなり、
言いながら半べそをかき、足が震えていました。
私はこれを言ったがゆえに、
そうしたら、
この体験をしてから、ああ、
そこから勇気を持って、せっせと行動するようになったんです。
真っ先に行ったのが、児童相談所でした。「
何で治ったか、話を聞いてもらえませんでしょうか」
応対してくれた所長さんは、とても驚いていました。
その次に行ったのが女性会館です。
「加害者側の夫です、治ったんです」と、
館長さんはびっくりして「20年ここで館長をやっているけど、
その次に、少年科の刑事さんにアポイントを取って、
「非行少年がなぜ非行に走るか、私分かるんです」
市内の全ての小中学校、保育園の校長、
そういう噂を聞きつけて、
結構心のことに理解を示してくれる人で、
そうしたら、問い合わせが殺到しました。
みんな悩んでいたんですね。
でも田舎なので、噂で広まると思うと言えないのです。
参加していたうつの自助グループにも、
私があまりにも元気になって帰って来たので、
そこでの座談会で自分の体験を話したら、
それに、あれだけ恨んでいた母とは、
もう、以心伝心って感じです。
お互いに感謝し合えて、認め合えて、
母も佐藤康行(YS)メソッドを受診したのですが、
妻とは心の結びつきがさらに深くなったと思いますし、
実は、4人目の子どももできました。
もう家族関係は本当に、ガラガラガラっと変わりました。
林業からトップセールスマンへの転身
だんだん人を喜ばせることが自分の喜びになってきたとき、
知人を通じて、
営業経験など何もない私でしたが、
しかし見知らぬ人に電話した経験もありませんでしたから、
他にも語り尽くせないくらいの困難がありましたが、でも、
ふと気がつけば、
その時、
その後、だんだん数字が上がってきて、
それでまた少し、自信がつきました。
それから現在に至るまで、
その後も仕事を続けているうちに、私のなかに、
すると突然、成績がびっくりするぐらい上がっていきました。
その時は正直、何が起こっているんだろうと思いましたが、
気がつけば、あれだけ苦しんだうつのことは忘れていました。
営業コンサルタントに転職する前は、
それに、職場の仲間の見え方も変わってきました。
皆さんが同志であり相棒であり、
やっぱり自分から始めていくんだということを、
職場の皆さんと一緒に仕事をしていて、
以上、三輪さんの素晴らしい体験談をご紹介させていただきました。
三輪さんは現在、佐藤康行メソッドを主軸にした統合失調症の方の訪問看護専門の分野で、真我プロカウンセラーとしてご活躍されています。
ご訪問いただき、ありがとうございました。